『骨考古学と身体史観』

ーー古人骨から探る日本列島の人びとの歴史

片山 一道


定 価: 本体2,400円+税(税込2,592円)
発売日: 2013年07月22日
判型/頁: 四六判 上製 320頁
ISBN: 9784906822065

過去の人びとの身体特徴を明らかにし、名もない「日本人」の姿をよみがえらせ、日本人の原像を浮かび上がらせる。

◉身体史観ことはじめ
◉日本列島の旧石器時代人の面影
◉日本人の原像を探る(縄文人に学ぶ彼らの生きかたと死にざま
◉弥生時代人の実像と「弥生人」さまざま)
◉藤ノ木古墳とキトラ古墳の被葬者像
◉江戸時代の京町民の実像を古人骨から探る
◉あらためて「日本人とはなにか」を考える
◉古人骨の語る言葉に耳を傾けよう—わが研究ノートから

<「身体史観でみる日本人の歴史」>

 ひさしぶりに単著単行本を物した。かつて一年一冊主義を標榜していたこともあるが、大学での雑用が増加、大学院教育だの学部講義だの、さながらティーチングマシーンと化したがゆえ、忸怩たる思いで自粛していた。
 人類学というファジーな学問を専門としたために、研究活動は縦横無尽。ときに「見境ないですな」と言われた。横糸は、地球上を飛びまわる「渡り鳥」シリーズ。南太平洋のポリネシア人の研究に血道をあげ、世界のあちこちで考古学の調査に加わった。縦糸は「骨屋」ものの仕事。古人骨から古代人を甦らせる骨考古学の研究であった。おかげで「書斎派」の蘊蓄には敵わないものの、「考える足派」の思考法が身についた。
 このたびの著書『骨考古学と身体史観』は、そんな私の生きかたを結晶させるべき試論である。日本史のようだが、そうではない。考古学のようだが、そうでもない。日本人論のようだが、そんな大それたものでは、さらさらない。それら既成分野に食らいつき、私なりの異分野融合を試みたわけだ。
 この書を貫くキイワードは「身体史観」。それを骨考古学と先史学の方法論で肉つけ味つけした。而して、日本人という「民族」の「氏か育ちか」の問題に近づけまいか、と念じた次第なり。日本人の歴史は起源論で片づくほどに単純ではなく、時代変容論だけで説明するのは無理筋なのだ。それを文章化することで深化できまいか、と願ったのが執筆の動機である。
 もとより、ひとり一人の身体は、賜り物であると同時に、われわれの文化や社会などと同様、歴史性を有する。長い歴史の積分された産物なのだ。ならば文化現象などと同じこと、日本人なら日本人ならではの身体現象を読み解くことで歴史の流れを推考できるはずだ。つまりは身体もまた、推理小説のごとく輻輳する歴史を紐解く手段となりえよう。
 あるいは歴史は時間を超えたドラマである。その主人公たる人間の人物像、生きかた、死にざまを忠実に描けば、歴史学の醍醐味は格段に増すだろう。ところが、なぜだか歴史書の類に等身大の人物像が登場するのは珍しい。あくまでも文化や社会生活のことが第一義的であり、つぎに事象や事件をめぐるエピソード、そして習俗のことなどがちょぼちょぼ。
 人物表現は、どうでもよいかのごとき、怪しげな人物画が出るばかり。なかでも興ざめなのが、聖徳太子や織田信長の像。前者は脚が短すぎ、耳たぶの位置が上すぎる。後者は巨大な鼻と小さな口が人間離れ。どちらも、そんな人間が実在したわけがないほどの代物である。 それらは絵画だから仕方あるまい、ともかくビジュアルに訴えれば良いのだ、との言い分もあろう。だが所詮、これらは絵画芸術、つまりフィクション(虚構)なのだ。ところが歴史学の真髄は、あくまでもノンフィクションであろう。それを虚構性で粉飾するのは、禁じ手ではあるまいか。じつは最近では、頭骨さえあれば、すぐれて写実的な人物像を復原できる。だから同時代人について、実在性ある人物像を提示することは可能なのだ。
 ともかく身体史観とは、生身の人間の目線で歴史を考えること、リアリティのある人間が登場する歴史学を模索すること、もって、人間主義の歴史学を構築することである。そんなメッセージを発信したい。それが本書の意図なのだ。

●片山 一道(かたやま・かずみち)

1945年、広島県生まれ。京都大学大学院修士課程(自然人類学)修了。理学博士。現在、京都大学名誉教授、橿原考古学研究所特別指導研究員など。専門は先史人類学および骨考古学。ポリネシア人の研究と古人骨の研究を進めてきた。

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