『昭和天皇実録評解』
小田部 雄次
◎第1部 ◉皇孫時代(1901 ~ 1912)
第1章 生誕から学習院入学まで(1901 ~ 1908)
◎第2章 学習院初等科入学(1908 ~ 1912)
第2部 ◉皇太子時代(1912 ~ 1926)
第3章 皇太子裕仁の公私
第4章 第一次世界大戦と講和
第5章 欧州旅行
第6章 摂政宮裕仁
<『評解』事始め>
『昭和天皇実録』が公開され、かつ順次刊行されはじめたので、隔週の夜間に行っている大学の社会人講座のテキストにした。
刊行された『実録』を受講生が音読し、質問を受け、私が答えていくというスタイルである。
<読みにくい『昭和天皇実録』>
多くの話題を集める『実録』だから、受講生の関心は高く、常連の方々はもとより、新規の受講生もかなりふえた。
開始してみて、いくつかの困難があった。『実録』は漢字だらけで、慣れない人名や事項も多い。現代の一般人が辞書なしで読めるシロモノではないのだ。
まして漢文素読のようで最初は意味もわからない。
そのうちにあくびをする受講生も出てきて、朝から講義や会議をしていた私までも眠くなる。
試みに冒頭を読めば、「東京市赤坂区青山の東宮御所内御産所において皇太子嘉仁親王(大正天皇)の第一男子として御誕生になる」とある。「嘉仁(よしひと)」以外は大方が読めるが、「東京市赤坂区青山の東宮御所内御産所」は「寿限無寿限無」と読んでいるようである。
受講生の多くは焼津市民で、赤坂区青山がどのあたりで、東宮御所がどんな建物かわからず、イメージがわかないのだ。「親王」と「王」はどう違うのか、それを説明するのも難儀だ。「第一男子として御誕生になる」は「長男が生まれた」とどう違うのかとの声も出て、一瞬時間が止まる。
次いで「相磯慥」「橋本綱常」「岡玄卿」などなじみのない名前が続く。だれも「あいそ・たしか」とは読めない。「あい・いそぞう」「あいいそ・つくり」など珍答が生まれる。
「橋本」が「橋本左内」の弟と知って「あぁ」という声が二、三人から聞こえる。
「岡玄卿」にいたっては、前に「侍医局長」とあるので「侍医局・長岡玄卿」と読む人がいた。注釈なしでは読めない史料なのだ。
<受講生の一言から>
結局、私が原本を要約しておおまかな内容を紹介し、適宜、ルビや解説をつけるというやり方にした。
幸い、新聞公開時のコメントのためにつくった要約メモがあるので、これを利用した。受講生の理解度も進み、講座の進行速度もアップした。そして、「彫刻用木工連続形体」「ボンベッキ」など、どこを調べても手がかりすらみつからなかった言葉を、受講生の方々からいただいたヒントでかなり言語化できた。
「守刀は『鋳造』でなく『鍛造』だよな」とか、「丑年だから『虚空蔵菩薩像』か」など、受講生たちのさりげないつぶやきで、私の知識も広がった。
この講義ノートを、敬文舎が一冊の本にまとめてくれた。
タイトルを『昭和天皇実録評解』としたのは、原本の要約にルビや脚注を付したからである。
分量が多く、時期を皇孫・皇太子時代に限定したので、副題を「裕仁はいかにして昭和天皇になったか」とした。
●小田部 雄次(おたべ・ゆうじ)
1952年、東京都生まれ。立教大学文学研究科博士課程満期退学。現在、静岡福祉大学教授。専門は、日本近現代史、とくに近代皇室研究。