『民間社会の天と神仏』
ーー江戸時代人の超越観念
深谷 克己
江戸時代の人びとは、天や神仏とどのように向き合い、生きる規範としていたのか?
◉超越観念と政治文化
◉農耕・諸職業の始祖言説
◉『農業全書』の超越観念
◉民間社会の教諭と超越観念
◉野翁の民政献言と神・儒・仏
◉俗間に真儒をめざした石門心学
◉耕作・芸能・一揆・災害のなかで
◉市井国学徒の神道と儒道・仏道
◉反乱・世直し・創唱教団の天仏神
<おてんとさん>
一九七〇年代、テレビドラマシリーズの主題歌「おてんとさん」の渋い歌声が流れた。盲目の侠客「座頭市」を演じた勝新太郎の声である。
歌詞には座頭の市の晴眼への思いが滲み、毎回のドラマにもその願いが語られている。だから「おてんとさん」の歌詞には特別の意味がこめられていたが、それを聞いている人びとの側は、なんの戸惑いもなく日本語としてのこの言葉を了解した。だからこそ「座頭市」の主題歌になりえたのである。
つまり、だれもが知っている言葉だったということで、いまも死語ではない。『広辞苑』は「お・てんと・さま」、『大辞林』は「おてんとうさま」、そして『日本国語大辞典』は、「おてんとう」「おてんとうさま」「おてんとさま」の三項に取り、使用例と方言化した表現(オテンドサマ。オテントハン。テントサマなど)を紹介している。
<超越観念「天」の日本史的様相>
『政治文化と民間社会』は、天という観念がどのように日本の「民間社会」に受け入れられているのかを探ることに主眼を置いている。私は、「社会現象」としての超越観念の現れかた、働きかたに関心をもつ立場であり、毎週放映されるテレビドラマで「おてんとさん」の主題歌が流れ、代表的な国語辞典が国語のひとつとして「御天道様」を忘れることなく採録している日本社会は、天観念を共有していることをおのずから証していると私は考える。
ただし、日本の天観念は、宗教史研究の対象になるような概念の体系、経典・教団・制度・専業者・信者組織に支えられたものではない。神儒仏のそれぞれ独自の、あるいは習合した多様な神格を共存させた信仰環境をもつ日本では、多神教的な御利益信仰という特徴で大まかにとらえることができるほかは、細部の相違が大きく、そこに宗教史研究の専門分野が成立する根拠がある。天観念は、この分野の研究対象になってこなかった。
私は、そのことを知ったうえで、長年の研究生活から史料のありかたに戸惑わない近世史に焦点を当てて、日本の天観念のありかたを検討しようとした。自分自身が解こうとしている問題設定の方向から考えて、どうしても避けて通れないからである。
日本の天観念は独立しているものではなく、儒教の上天、仏教の極楽、神道の高天原とそれぞれ結びついているもので、それ自体入り交じっている。しかし、多様で混雑した超越観念群が溢れるように活動しているにもかかわらず、それらの神階の最上位に天が置かれている。他を排除するのではなく、頂点で取りまとめる役目を引き受けるように。
そうした天観念のありようは、他のなにものにも似ていない、日本の独自性を強調しているようにもみえる。
しかし私は、日本が稀なる存在であることを証明するために本書を書いたのではない。逆に、日本が東アジア世界を構成する個性的な一布石であることを証するために本書を企画したのである。
本書は、超越観念に視角を向けているが、じつは、政治文化の問題としてそれらに着目している。というのは、私は、世界にはいくつかの同質の政治文化をもつ法文明圏が存在すると考えているのだが、それらの法文明圏を異質にする大元のところに超越観念があると考えているからである。
それは現代の国民国家の単位で異質なのではなく、代表的には同一の古典古代から育ってきて、対抗しつつ膨張してきた王朝連合世界の域圏によって異質さを表わすと考えているのである。
天観念は、私見では、東アジアをひとつの法文明圏として着色している重要な要素である。もう一歩話を進めると、じつは本書のような試みを通じて、私は「脱アジア」の日本史認識を糺そうとしているつもりなのである。
●深谷 克己(ふかや・かつみ)
1939年、三重県生まれ。早稲田大学大学院博士課程修了(文学博士)。早稲田大学名誉教授。専門は日本近世史。『百姓一揆の歴史的構造』(校倉書房)、『士農工商の世』(小学館)、『東アジア法文明圏の中の日本史』(岩波書店)など。