『日本古代の王権』
荒木 敏夫
古代王権の展開の歴史を、王位継承・譲位・幼帝などのほか、「苑池」「日蝕」など新しい視点から考え直す。
◉序章 王権とはなにか—王権論への誘い
◉第1章 古代の王位継承
◉第2章 古代王権と譲位
◉第3章 古代の王権構造—非常時と日常時の王権
◉第4章 古代王権の多極構造
◉第5章 古代の苑池と王権
◉第6章 日蝕と王権
◉第7章 王の引見・謁見—『寛平御遺誡』と外交儀礼
◉第8章 研究小史—王権研究と日本古代史
<書き落としたこと>
─ケンペルのみた日本の古代─
どうにか、『日本古代の王権』を上梓することができた。このことは、たいへんありがたいことであり、喜ぶべきことであるが、結局書かずに終えてしまった残念なテーマがある。そうしたテーマのひとつに、ケンペル(一六五一~一七一六)の天皇・王権にかかわる記述がある。ケンペルの著作『日本誌』には、つぎのような一文を含む興味深い記述がある。
神聖視されている天皇が自らの足を地面に触れることはその神聖と威厳を著しく損なうことになるというわけで、天皇はどこへ行くにも人の肩車に乗せられて運ばれるのである。
『日本古代の王権』第七章の「王の引見・謁見─『寛平御遺誡』と外交儀礼」の冒頭で、大久保利通の「大坂遷都建白書」を紹介したが、このケンペルの指摘は、同建白書が記す「玉体は寸地を踏(ふみ)玉(たま)はざるもの」と考える「弊習」と密接につながり、明治時代のアメリカ人教師のグリフィス(一八四三~一九二八)の、「ミカドは地面に足をつけることを許されていなかった。皇太子も通常、部屋から部屋へと渡る時は、人に運ばれて行った」(『ミカド』岩波文庫、一九九五年)とする記述にもつながるものである。
それが虚であれ実であれ、ケンペルの「記述」は、ケンペルの「証言」として強い影響をその後に与えており、類似の記述は、他にも確認することができる。その指摘は、「裸の王様」をみた少年の眼に通じるものがあり、興味は尽きない。
ドイツ人のケンペルは、医師であり、博物学者でもあった。オランダ東インド会社の一員として元禄三年(一六九〇)に来日し、オランダ商館長に随行して、二度、江戸に参府している。そして元禄五年に離日。その著『日本誌』は、ヨーロッパにおける日本理解に大きな影響を与えた。そのケンペルが、同書のなかで、日本の王位継承についてふれたのが、つぎの一節である。
帝の崩御によって皇位が空くと、朝廷の大臣達の協議を経て、年齢や男女の性別にこだわらず、皇位継承の順位にあると思われる御世嗣が、崩御された帝の後を継いで天皇の地位に据えられる。その場合、しばしば全く幼い皇子または若い未婚の皇女が皇極に登られることがあり、時には崩御された天皇の未亡人が、亡き帝の後を継いで政権を握った異例の事実もある。
ケンペルのこの記述は、「全く幼い皇子」の即位である幼帝の例、「若い未婚の皇女」の即位である元正・孝謙(称徳)・明正らの女帝即位や、「崩御された天皇の未亡人」である推古・皇極(斉明)・持統らの女帝即位の例をすべて視野に入れた論になっている。
この記述を保証したのは、「朝廷の大臣達の協議を経て、年齢や男女の性別にこだわらず」王位の継承が行われた、とみたケンペルの日本の王位継承をみる眼の確かさにあった。
●荒木 敏夫(あらき・としお)
専修大学教授。1946年、東京生まれ。早稲田大学文学部大学院文学研究科史学専攻。専門は古代史、とくに古代天皇制をさまざまな角度から研究している。